●「反日」拡大

  竹島問題、歴史教科書問題などをめぐって、また韓国と中国で日本批判が噴出している。繰り返される東アジアの「反日」の文化的素地とは何なのだろうか。
  反日の動きが出るたびに、日本人の反応は、理解不能の不気味さへの戸惑いか、「やはり反省が足りないんだ」という贖罪意識に二分される。 しかし、中韓のこうした動きは、実は、彼らの側の根本的な世界理解の方法、つまり中華思想と不可分なものであり、日本の対応とは無関係に、永遠になくならないと覚悟する必要がある。

  東アジアでは、儒教文化を分有してきた。それは「礼」という行儀作法を共通の規範とするもので、世界の中心にあると自任する中韓から見ると、日本は「礼」も知らない野蛮な国で、 教え諭すべき相手と位置づけられる。その論理の中では、戦争に敗れながら、一足先に経済発展した日本は、矛盾した存在となる。

  批判の対象としの日本は「道徳性が欠如」しており、道徳的に優位に立つと考える彼らは、日本に対しては何を言っても、何をやってもいいということになる。それが彼らの伝統的な思考パターンだが、 今、歴史認識、日本の国連安保理常任理事国入りの動きにかこつけて騒ぎとなっている。
  中国、韓国は、日本の右傾化、ナショナリズムの台頭を強調するが、冷戦終結でイデオロギーの対立が終わった東アジアで、ナショナリズムが勃興しているのは、むしろ中韓の側だ。繰り返される不毛な争いを避けるためには、 彼らの側こそ国内の過度のナショナリズムを抑え込まなければならない。

  過去の歴史に対する認識はどこまで行っても平行線だ。謝罪を繰り返しても、足りないと言い続けられるから解決策にならない。このことは日本人も気づき始めている。
こうした東アジアでの隣国とのつき合い方は、相手の主張をよく聞いて、相手の誤解はただして、主張すべきはきちんと主張することだ。無視することが一番よくない。
当然、論争になるだろう。そして結論は出ない。その状況が出発点で、互いに前向きな知恵が出る。「和をもって貴しとなす」というのは、日本国内でだけ通用するもので、論争こそがつき合いの始めだ。

2005年4月15日(金)発行 読売新聞より転載