時の余白に
「閑」−老後の幸福

編集委員  芥川 喜好

著名人の病気はそれだけで大きなニュースですが、王監督の場合は、人一倍‥頑健だったはずの方のしかも戦いの場からの離脱という事実に、多<の人々が衝撃をうけたようです。 プロ野球の監督は最もしんどい職業の一つだと聞いたことがあります。それを休みなく続けて今年で12年目です。 2年続けて激しい公式戦の後のプレーオフに敗れ、今年はシーズン前にWBC代表監督として奇跡の優勝を遂げます。凱旋したその足でチームに合流し、2日後に開幕を迎えています。 まさに、体を休める暇もない。一方、胃の痛くなる場面は無数にあったに違いありません。
意志の力でいかに体を鍛えあげても病気を免れることはできません。身体は意志の及ばぬ一つの自然であり、自らの手の内にないものだからです。 王さんに対しては、各界から多くの励ましの言葉が寄せられました。共通するのは「とにかく今は治療に専念し、一日も早く再び雄姿を見せてほしい」という、復帰への希望と期待です。 王さんがいかに国民に愛され、身を案じられているかがわかります。一日も早い復帰は、詣よりも本人自身の強い願いでしょう。

ただ、人間の命を本当に気遣うのであれば、多くの声とは別に、もう一つの声があってもよかったと思います。
「王さん、良い年月、本当にご苦労さま。さぞお疲れでしょう。あなたは偉大な功労者です。今日までのすごい頑張りに、みな感謝しています。あとはゆっくりお休みください。のんびり生きるのもいいものですよ」
復帰に向けて闘病中なのに余計なお世話だ、とご本人はおっしやるでしょう。失礼。これは一つの物の考え方です。そういう道もあるということです。 人の生き方にかかわることなのに、言説が、方向を向いていて、違うことを言うと居心地が悪くなるような空気が時代のなかに醸成されている気がします。
たとえば「団塊」という言葉で十把一からげにされる世代の定年を前に、60代以降をどう能動的に生きるかといった議論が盛んに行われています。 はつらつと生きないとまずいような、若々しく振る舞わないと軽んじられるような、妙な窮屈さを感じます。 もっと自然体でいいではないですか。ご苦労さん、40年近くも働きづめで来たのだから、あとはゆっくり日々を慈しんでください、もう何も強制されることはありませんよ…そんな一言を待っている人もいるはずです。

ではおまえはどうかと問われれば、一からげ世代の人間としてはこう答えましょう。緊張を解いて日々の生活を、その細部を、楽しみたいと。たとえ何かの仕事を続けるにしろ。 生活のなかの物言を、においを。朝夕の光の加減を、時間の推移を。そしてそれらをつつむ自然の気配を、楽しみたいと。つまり一個の自然物として生きる実感を味わって死にたいと。 定年後の暮らしや老いへの不安をかきたてる警告のたぐいには、感謝しておきましょう。なるほど大変なことばかりですが、これは覚悟をきめ、挙りしを簡素化して臨むしかありません。 生きがいを求めよ、前向きに生きよ、といった忠告には、どうぞおかまいなく、と喜っておきましょう。前を向くも後ろを向くも自由、それが定年の意味です。一人一人の個別の価値観に立ち入ろうとする言説の陰に商業主義のにおいを感じます。

猛暑の一日、汗をふきふき横浜の港の見える丘公園に登り、神奈川近代文学館の「中野孝次展」を見てきました。 2年前に79歳で亡くなった中野さんはドイツ文学者として出発し小説、評品等に幅広い活動を続けた方です。とりわけ後年は、生の「真の豊かさ」をめぐる思索を重ね多くの本を書いています。 展示のなかに、最近発見された「ガン日記」草稿がありました。04年2月17日、がんが見つかった日、中野さんは書いています。
「座椅子に坐って陽に当っていると、椿やミカン、スダチなどの濃い緑の葉が光り、鳥が石の上に置いたミカンを啄みに来、犬たちが龍のヒゲの上に気持よさそうにねている。すべてこともなく、よく晴れ、風もなき冬の午後にて、見ているとこれが人生だ、これでいいのだ、と静かな幸福感が沸いててくる…… 肉体の危機に際して日常の細部があざやかに立ちあがってきた一瞬です。至福の光景です。
晩年の中野さんは「閑のある生き方」の必要を説き続けます。多忙を離れ「閑」の状態に身を置くとき、人間は本来あるべき自分白身になる。真の幸福はそこにしかない。それが可能な老年とは人生の一番いい時なのだ−と。
老年が輝かしく見えてくる言葉です。お金も健康も重要ですが、己を支えるいい言葉をもつことも大切かもしれません。

読売新聞 2006年7月29日掲載