「老いる自分 眺める自分」

マルコム・カウリーというアメリカの文芸評論家・詩人で編集者でもある人が、八十歳を過ぎて刊行した八十路から眺めれば」(小笠原豊樹訳・草思社刊)の中に次のような一節がある。 「老いを告げる肉体からのメッセージ一覧」と題されている。
お前は老人だ、とのメッセージを男性が受け取るのはこんな場合だとして、そこに十六の項目があげられている。幾つかを紹介すれば次のとおり。

まだ七十代の半ばである我が身にとっても思い当ることばかりである。腰をはじめとしてあちこちの骨や関節は痛みを感じるし、 靴下を履くのに苦労するし、ズボンを脱ぎかけても片足がうまく抜けずに転びかけるし‥階段を下りる際にはつい手摺りを掴んでいるし、夜の車の運転は億劫になるし……といった案配である。
せめて美しい女性とすれ違った折には、それがどこであっても振り返ることだけは実行しよう、と自分を励ますのが精一杯だ。

カウリーによれば、老いのきっかけとなるのは他人の眼差しであり、その後でゆっくりと他人の判断に調子を合わせるようになるものであるらしい。 としたら、彼のあげる項目は自己点検のための貴重な手がかりを与えるものであるに違いない。項目を列挙することによっていわば他人の目を設定し、それによって自らの状態を判断しようとするのだから。 そこには老いてゆく自分と、それを眺めようとする自分との、二人の自分が存在する。
少し前のことだが、自分を老人であると思ったことは一度もない、と断言する男性に出会った記憶がある。
髪は薄くなっているものの背筋はぴんと立ち、声に力があって言語は明晰だ。話の内容から察するに八十歳前後には到達している。 その年齢にしてその気迫を持つことに感銘は受けたものの、ではこの人はカウリーのあげるようなどの点検項目も簡単にクリアーしてしまうのだろうか、と余計なことを考えた。
実際にそうなのかもしれない。羨ましい限りではあったけれど、それではこの人の老年はどこへ行ってしまったのだろう、とふと疑う気分も芽生えた。 心身ともにあまりに健康であると、老いる自分を眺める側の自分が育ちにくいのかもしれない、といささか失礼な心配まで覚えた。 こういう人は混み合った電車に乗っても吊り革を握り、毅然として立っているのだろうな、と想像した。

それに比べてこちらはなんとも情ない始末である。電車が来ればまず隅の優先席に目がゆき、空いていれば遠慮なく坐らせてもらう。若い人がそこに坐っていれば、立ってくれないかな、と期待したりする。
あまり露骨にそんな態度を見せたくはないので、もし本当の老人が近くにいるとしたら、優先席である以上この若者は当然立って席を譲るべきなのだ、と他人にかこつけて一般論を展開しようとする。 そして、物欲しげな自分の視線に気づき、恥かしくなってあらぬ方に目を逸らすこともある。
日頃はあまり老人扱いされたくないと思っているにもかかわらず、そういう時だけは老いの権利を主張したがる自分がいるらしい。そしてそのこと自体がまた老いの証拠であるような気がし始める。 あれやこれやと考えるうち、応用問題が浮かんで来る。こちらが優先席に坐っているところにもしもっと年寄りの客が乗って来たならば、さっと席を譲ることが出来るだろうか、と。 当然そうする筈だと頷く一方で、こういう年寄りは混み合う時間の電車に乗らなければよいのに、とか不平を噛みしめる気分も湧くのではあるまいか。 そうだとしたら、優先席に坐る若者とこちらとの間にさして違いはないようにも思われて来る。
老いてゆく自分とそれを眺める自分との間には、この種の面倒でややこしい関係がひそんでいるような気がする。 それとは別だが、発車間際の電車に走って乗ろうとする際にも問題は起る。閉りかけたドアを手で押えて乗ろうとすることが危険であるかどうかより、もし身体をドアに挟まれておかしなことになったらみっともない、 との心配が先に走る。無理して乗ろうとするのは老いてゆく自分であり、よせよせ醜態を曝すぞ、と戒めるのは眺める自分であるのかもしれない。

読売新聞2006年12月26日掲載「時のかくれん坊」より