編集手帳

昔の映画には喫煙のシーンがよく出てきた。エッセイストの阿奈井文彦さんが「男と女」(クロード・ルルーシュ監督)で数えてみたところ、主人公の男女は14シーンでたばこに火をつけたという◆「路上。車中。駅のホーム。列車。レストラン。はてはガソリンスタンドで喫い、従業員に注意される」と、著書「名画座時代」(岩波書店)にある。いくら恋愛に夢中でも、そんな場所で吸われてはかなわない◆灯油を見に浴びた人も、危険の度合いにおいてはガソリンスタンドと大差ないだろう。火気厳禁のその人に、たばこを与え、ライターを手渡す。こともあろうに警察署内の出来事という◆愛知県熱田署の取調室で、事情聴取を受けていた男性(45)が火だるまになって死亡した。男性は内縁の妻と喧嘩をし、灯油をかぶったところを保護されていた。署員にせがみ、もらったたばこの火が引火したものらしい◆せがまれたからといって、「さあ、お吸いなさい」と勧める者がどこにいる。出来の悪い喜劇映画でも、これほど間の抜けた警察官は登場させないだろう。間の抜けた代償は、人ひとりの命である。

讀賣新聞 2008年5月13日 掲載