よみがえる暴行の痛み

 身長180センチ以上、体重は100キロを超える前夫の巨体が、怒号と共にA子さん(38)に向かって来た。左目にげんこつが飛び、腹に足がめりこんだ。髪をつかまれ、引きずられた。 2005年、近畿地方のA子さんは、6年間続いた前夫の暴力から逃げるため、短期賃貸マンションに逃げ込んだ。部屋には当然、前夫はいない。だが、今度は脳裏に焼き付いた暴行の記憶が、A子さんに襲いかかってきたのだ。
 思い出したくない数々の暴行場面が、突然、記録映画のように頭の中を巡った。「なぜ、こんなことが起きるの?」。恐怖で体が硬直した。
 さらに深刻なことは、体の痛みも感じた。前夫の幻に殴られ、けられた部分に本当に激痛が走る。そんな状態が数十分間続いた。
 激しい暴力や大事故などで、命が脅かされる体験を機に起こるPTSD(心的外傷後ストレス障害)の代表的症状「フラッシュバック」の始まりだった。
 看護師として働いていたA子さんは、10年前に結婚して専業主婦になった。まもなく長男を出産したが、結婚の翌年から始まった前夫の暴力で、心身は次第に衰弱していった。 暴力のきっかけは、ささいなことだった。「子供の初節句をどこで祝うか」。意見の違いに前夫は激高した。顔をたたかれ、腹をけられた。「殺される!」。外に逃げ出そうとしたが、玄関で髪をつかまれ引き戻され、再び殴られた。
 その日のうちに、子供を抱えて実家に帰った。以来、前夫は頻繁に実家を訪れ、謝罪した。「悪かった。もうしないから、やり直してくれないか」
 一ヶ月後、その言葉を信じて家に戻った。前夫は、しばらく家事や育児に協力的だったが、二ヶ月後、再び暴力をふるった。体中に多くのあざができ、痛んだが、暴行の発覚を恐れた前夫は保険証を渡さず、病院に行かせなかった。逆に、殴りすぎて動かなくなった手の治療のため、前夫が病院に行った。
 そのころ、子供に重い知的障害があることが分かった。「家を出ても子供の世話で満足に働けない。子供のために耐えるしかない」と考えるようになった。
 今では、この時の心境を「間違いだった。夫から離れるべきだった」と思うが、当時は心の余裕がなかった。度重なる暴力に耐え続けた。そして、ストレスによる最初の異変が表れた。聴力低下だった。

讀賣新聞 2008年6月16日 掲載