沖縄の痛み 書き切る責務
 山崎豊子さん

西田朋子

社会はの視点で、現代史の闇を見据えてきた作家の山崎豊子さん(84)が取材、執筆に8年をかけた『運命の人』全4巻(文芸春秋)の刊行が始まった。沖縄返還をめぐる外交機密文書の漏洩に関与したとして、新聞記者と取材源の外務省女性職員が逮捕、起訴され有罪となった「西山事件」をモデルにした小説。数年前から原因不明の病魔に襲われ、体に激痛が走るようになったが、「沖縄への強い思いゆえに」、原稿用紙1700枚近い大作を書き切った。

大作「運命の人」刊行
記者の取材の駆け引き、新聞社の内幕をも盛り込み、異例の事件を生々しく描いた。法廷闘争では、報道の妥当性であるはずの争点が、記者と女性職員の肉体関係という醜聞に塗り替えられていく、「国策調査」の危うさが浮き彫りになる。
 『暖簾』(1957年)でデビューした当時、毎日新聞の学芸部記者だった山崎さんにとって、司法・立法・行政に次ぐ「第4権力」とされるマスメディアは、長年あたためてきたテーマだった。「西山事件を題材にすれば、国家権力とマスメディア、そして沖縄問題を描くことができる」と、当事者である毎日新聞元記者・西山太吉氏に取材を申し込んだ。西山氏の弁護士が保管していた、数千ページに及ぶ裁判資料も読み込み、「罪を裁かず、モラルだけを裁いた不当な裁判だった」と確信した。

西山事件 題材に
ジャンボ機墜落事故と航空会社の腐敗した経営を描いた前作『沈まぬ太陽』を執筆中の97年ごろ、取材で訪れた鹿児島で時間が空き、ふと思い立って沖縄まで足を延ばしたことが、作品を手がける行動力のみなもとになった。
 本土復帰後も在日米軍基地の75%が沖縄に置かれ、現在も騒音や、米軍兵による犯罪などの被害は後を絶たない。民家を押しのけて基地が広がる光景に、「沖縄をテーマに小説を書かなければ、という思いがふつふつとわき起こりました」。
 戦時中、国内で唯一、地上戦が行われ、島民の4人に1人が死亡した沖縄戦の悲劇。その後の取材では、当時、学生でありながら「鉄血勤皇隊」と「ひめゆり学徒隊」として動員させられた夫婦からも話を聞いた。砲弾や集団自決で多くの命が絶たれたことを生の声で打ち明けられ、「知らなかった。恥ずかしい、申し訳ありません」と繰り返すしかなかった。「コバルトブルーの海が、真っ赤な血の色にしか見えなくなった」。そう語りながら、涙ぐんだ。

 夫婦と同世代だった山崎さんは戦時中、学徒動員のため軍需工場で砲弾磨きに従事した。「この弾で、人が殺される」という恐怖と、学業と共に教員になる夢をも断たれた悔しさと。バルザックの小説を持っていたのを見とがめられ、当時将校に殴打された記憶は、今も心の傷として残る。「戦争の不条理、その暴力性が、私たちの世代の心と体にはしみついている」
 新聞社を辞め家業を継ぐも立ちゆかず、失意のどん底で沖縄に流れ着く元記者。人の情と自然とに心癒やされ、いつしか一人の人間として沖縄の痛みにかかわっていく・・・・・。主人公の後半生は、実在の西山氏から離れ「私ならこうするほかない、という気持ちで書き進めました」。結末まで粗筋を決めて書く山崎さんには、珍しいことだった。

 シベリア抑留(『不毛地帯』)を、日系2世(『二つの祖国』)を、中国残留日本人孤児(『大地の子』)を、そして沖縄戦を、人間ドラマとして書き継いできたのは、<書かなければならないという責務>に突き動かされたからという。
 脇目もふらず、走りきった『運命の人』執筆中に、作家生活50年の節目を迎えた。『大地の子』を書き終えた91年ごろ引退も考えたが、編集者から「作家は死ぬまで万年筆を離してはいけない」と論され思い直した、と振り返る。今は「作家に年齢は関係ない」と、揺るぎない。
 体の痛みで2か月間、入院もした。わずかに体を動かすのも、話すのもつらい状態が続く。それでも「体の中から小説がわき出てくる限り、書き続ける」。声を振り絞るようにして、そう言い切った。

讀賣新聞 2009年5月13日 掲載