牛が火種 島の薩英戦争

磯田道史

普天間基地の移設問題にからんで徳之島やトカラ列島宝島の名を耳にして思い出した。宝島はアングロ・サクソンと日本人が初めて戦った地だ。以前、その史料を複写した記憶がある。探すと「薩州宝島イキリス船漂泊記」(狩野文庫蔵)が出てきた。
 日本人は1853年のペリー来航で初めて西洋列強を意識したわけではない。日本近海には1800年ごろから頻繁に異国船が出現。ここで脅威をうけた藩から順次、西洋に目覚めた。まず1808年、英軍艦フェートン号が長崎に侵入。これで佐賀藩が覚醒した。1824年5月には常陸国大津浜に英人が上陸。これで水戸藩が変わった。同年7月には薩州宝島に英人が上陸。薩摩藩士と交戦状態になり、薩摩藩は西洋の脅威を目の当たりにする。事態を重くみた幕府は翌年、異国船打払令を出し、まずは武士階層から攘夷を意識しはじめた。
 平和な宝島で英国人と薩摩人が交戦した?末はこうだ。「七月八日昼四ツ(午前10)時、宝島西の方」に白い帆がみえた。翌日、半里(2キロ)沖に碇をおろし小舟で7、8人の異国人が上陸してきた。薩摩藩はこの島に監督官である詰横目・吉村九助を置いていたので、吉村と島役人が彼らに応対。「異国の人々の形」は「勇猛の姿」にみえ、背が「六尺(180センチ)有余」「鼻勝れて高く、色は日本人同様」であった。
 吉村らが「手振などにて何国のもの」と尋ねると「手前などはイキリス(イギリス)と申す事」がわかり「阿蘭陀・長崎」という単語は通じたが、彼らの差し出す横文字の書付は一向わからない。こちらからの筆談を試みたが通じない。手真似で「乗組は如何程」ときくと「左右の手を七度振」ったから「七拾人乗組」と吉村は推測した。  彼らはさかんに浜辺の「牛貰いたし」と訴える。野菜などを与え「牛はやれぬ」というと、一度は無難にひきあげたが、翌日またきて「是非是非もらいたく」と手真似。英国人は、「焼酎・麦にて製した候菓子(パンかクッキー)・通宝の金銀・衣類、或いは小刀・鋏・時計」を差し出し、牛と交換しろと迫る。吉村は「あいならず」と言い切り、野菜や米を見せると「米は不用。野菜は沢山もらいたく」と持ち帰った。
 ところが、その4時間後、大砲の音がした。英国人が小船「三艘に弐拾人余乗り込み、手に鉄砲携え、海上にて鉄砲すきまなく打ち」ながら上陸してきた。島人は「あわてふためき老若男女」みな山へ逃げる。軍学者であった吉村は迎撃を決意。流刑中の遠島人・本田助之丞にも助太刀を要請。島人12〜13人も加わり、日本人十数人対英国人20人の小さな戦争が始まった。
 しかし島人は戦い方を知らない。吉村は「平場の勝負なりがたし」と考え「此上はただ静まり返り」待ち伏せ、不意に射撃しようと考えた。一方の英国人は捕鯨船員で戦いは素人。20人がちらばり、そのうち3人が吉村のいる番所に接近してきた。吉村は「三間ばかり(6メートルたらず)」まで引き付け、「弐匁一分(弾丸の重さが約8グラム)の鉄砲に(火薬)強込にて三人の内、頭と相見へ候ものの胸元」に発砲。弾丸は「胸元の真中射通し背中に射抜」け、その英国人は即死。残りの英国人2人はそれをみて「一散に逃げ去」りながら銃を乱射。一発が吉村の「耳をこす」ったが大事に至らなかった。吉村は英国人の再攻撃に備えたが、11日には「帆かげも見えず」英国船は立ち去ったという。
 長い航海で英国人は新鮮な牛肉を欲し、この戦いが起きた。異国人の死骸はどうなったか。「塩漬け致し鹿児島に差送り」と古文書にはある。(日本史家)

讀賣新聞 2010年4月28日 掲載