杉野芳子 洋装の普及「自分の仕事」く

松本 由佳

東京・日本橋にあった百貨店「白木屋」が火災で多くの被害者を出したのは1932年(昭和7年)のこと。制服が和服で下着を着けていなかったために、女性店員たちは高所からロープやはしごで逃げる際、すそを気にして転落したと報じられた。
 杉野芳子はその時、「これからは洋装の時代」との思いをさらに強くした。その9年前の関東大震災時、動きやすい洋服の重要性を確信し、26年に洋裁学校を開いていた。
 「洋服を婦人子供の全部の洋服を支配する時期も夢想ではない」-----開講を伝える同年12月22日の讀賣新聞で、そう語っている。まるで予言のようだが、少なくともその時は、当初3人の生徒を相手に始めた学校が、やがて最盛期に全国で関連校800校を超す「ドレスメーカー女学院」に成長するとは、本人も予想していなかっただろう。  片田舎の旧家に生まれたが、婿養子だった父が米相場で財産を傾けた揚げ句に離縁される。母一人子一人のわびしい生活の中で、女性ながら自立して成功することを幼少時から望んでいた。千葉高等女学院を卒業して小学校教師をした後、夢を求めて渡米、洋装と出会う。帰国後、母国に普及させることを「これこそ自分の仕事」と心に決めた。
 「米国では小柄な自分が着られる服がなくて、必要に迫られて洋裁を学んだのです。日本人の体形を逆に生かす服ができるはずだと」。芳子の養子に嫁いだ杉野秀子(80)は言う。ドレスの卒業生で、現在は学校法人杉野学園事務局長を務める。
 自分の体形から起こした原型を元に型紙を作り、仮縫いで補正しながらぴったりの服を作る-----米国での試行錯誤が、一人一人の体形や個性に合い、その人を引き立てる「ドレス式」として結晶した。すっきりと体に沿ったデザインは、瞬く間に日本女性の心をつかんだ。
 米国滞在中に建築家の繁一と結婚、何不自由ない専業主婦の座に納まることもできたが、終生恥じることなく「私は職業婦人でございます」とあいさつした。全国を飛び回って洋裁術を教え、晩年も車いす姿で教壇にたった。
 作家の山崎豊子(85)は新聞記者時代に芳子のファッションショーを取材している。作品の裏を返して念入りに見る山崎に「服作りは地味な仕事。見えない部分に作った人の心が隠れている。きちんと見てくれてありがとう」と声をかけたという。
 洋服はすっかり定着したが、今の日本が、「見た目」を支える「見えない部分」の手間を忘れてはいないか、少々心配ではある。   (敬称略)

讀賣新聞 2010年6月27日 掲載