宰相の胆力
国民守る気概外交示せ

東大教授 山内 昌之

「幸福によろうが、策略によろうが、勝利とはつねに称賛に値することであった」
 おそらく菅直人首相は、16世紀フランスの思想家モンテーニュが引く詩人の言葉を聞いても首をひねり、いまだに国際政治の冷徹なリアリズムに納得できない思いではなかろうか。約束がひとたび成立すれば外交でも、公正な競走ルールのように、手足を使って相手を邪魔し転倒させることは許されない。しかし約束を平気で反故にする中国やロシアのような国もある。日本の領土や領海の主権を正面から否定する国の前で、市民運動から身を起こした首相が、試合で粘り強く勝つ道筋よりも、さながら「運のなさを悔やむ方を選びたい」(アレクサンドロス王子)と考えがちでは外交にならない。
 そして最近の外交失態の連続は、菅首相の責任だけでなく、整序された国家観や安全保障の共通認識をもたずに、国内法の規範感覚で対外関係も処理しがちな民主党政権の個性をまざまざと示している。
 折から11月下旬、私はトルコの首都アンカラで開かれた中東情勢をめぐる会議の基調講演を終えて帰国した。尖閣問題から北朝鮮の韓国・延坪島砲撃事件にいたる菅首相の外交姿勢は、「ホルムズ海峡からイスタンブールまで」広がる外交責任を強調するエルドアン政権の積極性と対照的である。エルドアン首相は、菅首相がソウルの主要20か国・地域(G20)首脳会議で欧州連合(EU)を除くと2国間会議を唯一もった首脳であった。同氏はイランの核開発問題を調停し、イスラエルの入植地拡大に反対するなどアラブ市民の人気も高く、「新オスマン主義外交」と称されるトルコの外交力も高く評価されている。菅首相も自民党政権のユーラシア外交や「自由と繁栄弧」といった戦略構想に匹敵する新たな外交ビジョンをつくるべきではないか。全体の外交戦略をつくるのは政治家の責務であり、それを個別の政策として実現するのは官僚(外交官)の仕事であるのに、ここでも肝心の政治主導は機能していないのだ。
 日本が国際常識のない国と違う品格をもつのはよい。しかし、日本を脅かす災いから国民を守るための積極的な意思表示を遠慮する必要はない。国民が政治家に揺るぎない信頼を抱くためには、国に降りかかる不幸に耐える受け身の姿勢だけでは十分と言えない。
 確かに、噛み付いてくる相手から身を守るために、退却や撤退というしなやかな身のこなしを見せることも時には必要であろう。
 戦いに強かったオスマン帝国最盛期のトルコ人でさえ、戦国時代の毛利元就のように、時には洗練された戦術として退却を選んだものだ。しかし日露戦争のクロパトキン将軍のように退却戦術だけでは士気を維持できない。歴史の事実が証明するように、譲歩を重ねて相手をかわしても、一時しのぎの外交は当座の責任を回避できるにせよ、大局的には大きな敗北を喫して国益を損なう遠因となる場合が多いのだ。
 人間には見たくないことを見ないという習性がある。古代アテネの軍人が、勇気とは敵に対峙して踏みとどまることだと述べた時、哲学者ソクラテスは退却しながら敵を破るのも卑怯なのかと応じた(モンテーニュ『エゼー』1の12)。
 菅首相にソクラテスのように一時的退却を勝利への方便と考える確信もあればよいが、アジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議での立ち振る舞いを見ると、贔屓目にもそう感じることはできない。胡錦濤主席との会談で相手の目ではなく手元のメモを見ながら自信なげに話す切ない光景に接すると、鳩山由紀夫前首相と同じく、外交や安全保障の厳しい本質を理解せずに宰相の地位を射止めた、幸運な政治家の不幸な限界を感じざるをえない。

  官僚の声聞く謙虚さ必要

国会議員であれば務まる人物でも、大臣になると馬脚を現し辞職に追い込まれる人もいたように、人間の能力が限界を超えると地位にそぐわない失敗を犯すことも多い。幸せな偶然が重なって宰相の地位にたどりついた政治家には、奮励努力とともに官僚はじめ専門家の助言に耳を傾ける謙虚さも必要なのに、政治主導のお題目がそれを邪魔している。菅首相には、普天間基地の移転難航や日米関係の毀損こそ中国やロシアの外交攻勢を許し、北朝鮮の軍事冒険を誘発した大きな要因であることを改めて理解してほしいのである。
 菅首相は、米国との繊維や自動車の摩擦問題、中国との平和条約交渉のように国益のかかる外交の修羅場を一度もくぐったことがない。そのせいもあり、威令が無条件で及ぶ官僚への威圧的態度とは対照的に、外国首脳と会うと意味不明の独特の笑みを浮かべるか、顔に「おびえ」や「恐れ」に似た表情が浮かぶ印象が強い。もちろん、どの人間の心にも隙や「恐怖感」が生まれることはある。しかし外交にあたる政治家に大事なのは、未知の非常現象に遭遇した時に、恐怖心を何かと中和し、不安な感情を迎える術を身につけることだろう。胆力ある政治家なら、心の乱れを免れない場合にも、それを「緩和」することができるからだ。
 普通の人間は誰でも、にわかに表れる妄想や恐怖をすぐにはね返せるわけではない。しかし一国の宰相ともなれば、おびえや恐怖にとりつかれて、内外の政策ともに正常に判断できない状態に陥ってはならない。
 外交で相手が非常識なほど強く出てくる時は相手も苦しいのである。相手が攻勢をかけてきている時に、それと我慢比べをしながら現場の公務員を督励すべき宰相が、逆にがみがみと叱りつけるのは、戦場で敵から矢や鉄砲玉が飛んでくる最中に、指揮官が些細な事柄で部下に罵声を浴びせるのと同じである。
 「恐怖は、わたしの心から、あらゆる思慮分別を追い払ってしまう」という古代ローマ人の詩は、さながら相手の事情を斟酌しすぎて外向的譲歩を重ねた謎を解いてくれるかのようだ。中国船衝突事件やロシア大統領の国後島訪問に直面して、相手の攻勢をかわすだけで精いっぱいの菅首相は、日本の主権を犯した外国に、”寛容”でありながら、映像情報を国民に知らせた海上保安官を厳しくなじる”内弁慶”ぶりを発揮した。有権者は国民の安全を保障すべき政府の能力に懐疑的になっている。
 いまこそ菅首相には、支持率20%台への急速な低下を、不安の中で生きる国民の正直な声として謙虚に受けとめてほしいものだ。

讀賣新聞 2010年12月5日 掲載