ダム建設 今も敬愛

源 一秀

日本統治時代の台湾で、ダム建設と用水路整備の壮大な事業を推進し、不毛の地だった南部・嘉南平原を豊かな穀倉地帯に変えた八田与一。
 日本ではほとんど無名の男は「台湾の偉人」として尊敬され、彼が台南に築いた鳥山頭ダムは、完成から80年が経過した今も大地を潤し続けている。

 「八田先生がくれた水を飲み、その水で育った米、野菜を食べて我々は生きてきた」。
 南部を訪れると、農業関係者など多くの住民から、八田への感謝の言葉を聞かされる。厳しい対日認識で知られる馬英九総統も「恩と怨は分けるべきだ」として、八田の命日である5月8日に合わせてダム関係者らが主催する追悼行事には欠かさず出席している。
 ダムの維持管理にあたる嘉南農田水利会の元顧問、徐欣忠さん(83)は、ダムの歴史と八田の活躍を伝える語り部の一人だ。戦後も台湾に残った八田の弟子の日本人技師から、人柄と仕事ぶりを聞かされ、ほれ込んだ。
 「八田が台湾で愛されるのは、業績はもちろん、その人間性にある」と徐さんは言う。植民統治時代、台湾人はいわば二等国民扱いだったが、八田ダム建設に携わった日台双方の労働者を平等に扱った。10年に及んだダム建設で、134人の関係者が事故やマラリアなどで亡くなった。今も残る「絢工碑」には、民族の差別なく亡くなった順に名が記されている。八田の指示によるものだ。
 八田は仕事をさぼる者には容赦なくどやしつけた。しかし、仕事が終わり、マージャン卓を囲み、酒を酌み交わせれば、労働者の家庭の話、悩み事に熱心に耳を傾け、世話を惜しまなかった。誰からも「仕事の鬼、慈しみオヤジ」と尊敬されたという。
 ダムを見下ろす高台には、作業着姿で地面に腰を下ろす八田の銅像がある。ダム完工直後、その業績をたたえるため、関係者が固辞する八田を説得、出身地の石川県の彫刻家に作らせたという。考え事をする時、右手で髪の毛をいじった八田のクセが再現されている。
 八田は1942年、かんがい工事のためフィリピンに向かう途中、乗った船が米軍の潜水艦の攻撃を受け死亡した。八田の銅像は大戦末期の44年、戦時供出の危機にさらされたが、ダム関係者が倉庫に隠して守った。戦後も国民党政権が日本時代の遺物を破壊するなか、関係者が隠し通し、81年にようやく元の場所に戻った。銅像が盗難や破壊にあってもまた作れるように、鋳型が今もダム管理事務所に保管されている。

 中学教科書にも「台湾の偉人」に
 八田の業績は近年、中学校の歴史教科書で紹介されるなど、台湾史の重要な一部と見なされるようになった。世代を超えた敬愛を集める八田は、ダムの恩恵を直接受けていない人たちにとっても、「台湾の偉人」だ。一方、日本では、植民統治の歴史の波間に消えた人物の一人でしかない。
 多くの台湾人は首をかしげるばかりなのだが・・・・・。

夕刊讀賣新聞 2011年5月6日 掲載