心困性
体に及ぼす力の不思議

作家 夏樹 静子

もう20年近く前になる50代初めの冬の朝、私はいつものように書斎へ入り、デスクの前の椅子に掛けた。が、なぜかすぐに立ち上がってしまった。腰が座位を拒否するような感じで、どうしても座っていられない。私は突然椅子に掛けられない人間になっていた。
 しばらくは立って書いたが、疲れが激しいので、寝て書くようになった。寝ていては想像力が羽ばたかないが、週刊誌の連載二本と毎月同作かの短編を抱えていた時期で、とにかく書くほかない。
 そのうち腰痛が始まった。朝目覚めた瞬間から発生する痛みは、寝ていても、起きて動いても、耐え難いまでにひどくなった。
 勿論考えられる限りの治療を試したが、何一つ効なく、症状は悪化の一途だった。
 二年半余りして、もうほとんど仕事もできなくなった頃、私は心療内科のお医師と出会った。医師は迷いなくいった。「それらの症状はすべて心困性です」
 最初私はまったく信用しなかったが、はじめて聞いた「心困性」の言葉には妙にインパクトがあった。
 半信半疑ながら、ほかにすべもないので、私は医師の病院へ入院した。絶食療法の中で、医師に断筆を勧められた。心困性の症状は仕事のストレスから生まれている。断筆以外に回復の望みはない、と。私は受け容れるほかなかった。すると不思議なことに、昼夜続いていた激痛は日に日にやわらぎ、二ヶ月後には元通りの健康体で退院した。
 私は心が体に及ぼす力の不思議を素直に信じるようになった。心と体は一つで、心は体調に左右され、体は心困性の影響で揺れ動く。人間は心困性の生きものとでもいうべきか。