補綴構造設計士・歯科技工士川島 哲の世界
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世界で一番美しい汗
もっと速くもっと遠く。
生命がそう告げるから・・・・・

  佐藤 真海 佐藤 真海
   陸上競技者 佐藤真海
若きアスリートは運命によりハンディを背負うこととなった。しかし、彼女がフィールドを駆け抜けるとき、我々はその美しさに息を呑む。
「怯まず困難に立ち向かうとき、人は流した汗の分だけ光り輝く」
−−−−まさにその瞬間である。

義足のジャンパー

艶やかな青いウエアを着けたその女性は、強い陽射しが照りつけるフィールドの上、鋭い眼差しで前方を見つめていた。周囲に満ちるピンと張りつめた空気。やがて激しく地面を蹴りはじめた両脚は、踏切板の上で宙に放たれ、しなやかな肢体を踊らせた。−−−その美しさに、誰もが一瞬忘れるのだ。彼女の右足が、膝下から義足であることを。
 2006年9月30日、岡山県陸上競技場。ジャパンパラリンピック陸上競技大会の初日、走り幅跳びに出場した佐藤真海さん(24歳)は、宮城県気仙沼市で生まれた。子どものころからからだを動かすことが大好きで、小学校では水泳、中学校では陸上、と常にスポーツに取り組む活発な少女だった。上京し大学に入学してからも、チアリーディング部で毎日汗を流していた。目標に向かってがんばることの充実感、目標に到達したときの達成感をもたらすスポーツは、彼女の人生にとってなくてはならないものだった。
 そんな佐藤さんを病魔が襲ったのは、2001年、大学2年生のときだった。
 ”骨肉腫”という病名だけでは、自分に降りかかった悲劇の意味を理解できなかった。しかし、「右膝下を切断するほかない」という宣告で、事の重大さを悟った。「もう、大好きなスポーツができない・・・・・」19歳の彼女にとって、それはあまりにも非情な現実だった。
 しかし、彼女は今、障害者走り幅跳びの選手として日本記録を保持している。
  
佐藤 真海 佐藤 真海

病気が教えてくれた大切なこと

過酷な運命に負けず、再び走り始めた彼女の、強さのもととは何だったのだろう。ジャパンパラリンピック初日の競技を終えた佐藤さんにお話をうかがった。  緊張感みなぎるアスリートの顔から一変、人なつこい笑顔を見せてくれた。右足は、競技中に着けていた板バネ状の義足から、日常用のものに着け替えられている。一見して義足だとは気づかれにくい、脚の形を模して作られたものだ。
 義足での歩行は慣れないうちは難しい。接合部が痛むからだ。ましてや走るとなると、さらに負荷がかかるので、なかなかすぐに取り組む気にはなれない。しかし彼女は、退院後、義足を装着し歩き始めると同時に走り始めたという。
 「たしかに痛かったです。でも、走れることの喜びのほうが大きかったので、苦にならなかったんです」
 走る喜びに目覚めた佐藤さんは、2003年から本格的に陸上競技を始める。めきめきと頭角を現し、2004年、アテネパラリンピックに出場するという快挙を成し遂げた。現在は、2008年の北京パラリンピック出場を目指している。
 人は自分が好きなことをするときが、一番いきいきとしていられる。自分にとって、それは子どものころから続けてきたスポーツだった−−−−。
 そう語る彼女を見て気づかされる。アスリート・佐藤真海の跳躍する姿が、ハンディキャップを感じさせないどころか凛々しくさえ映るのは、彼女がどんな状況にあろうとも、自分をいきいきと輝かせる生き方を貫いているからだ・・・・・と。
 アスリートとしての活動をバックアップするのは、就職したサントリー株式会社である。社員として働きながら、大会前には競技活動に専念できる今の環境に対して、心から感謝しているという。
 「病気になってから、『ありがたいな』『幸せだな』と思うことが多くなりました」
 逆境を乗り越えた強さを秘め、穏やかに微笑む佐藤さん。この笑顔が、来年、北京で花開くことを期待してやまない。

Katarotto 2007Vol.1 2007年1月19日掲載
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